歴史
東北最大規模の史跡「雷神山古墳」や60余基の高塚式古墳、100余基の大規模な熊野堂横穴墓群などの古墳をはじめ、中世から近世にかけて、東北太平洋沿岸で熊野信仰布教の拠点となった熊野神社(旧熊野新宮社)、熊野本宮社、熊野那智神社の名取熊野三社があります。
陸奥国の古官道「東街道(あずまかいどう)」がはしる西部丘陵上には、高舘城跡をはじめ中世城館跡が点在し、街道沿いには藤原実方朝臣の墓など伝承の地が数多く残されています。
郷土芸能では、熊野信仰の隆盛を今に伝える熊野堂神楽や舞楽、道祖神神楽、花町神楽、熊野堂十二神鹿踊、今熊野神社付属神楽、下増田麦搗き踊、閖上大漁唄い込み踊、手倉田枡取り舞などがあります。

雷神山古墳
4世紀後半の古墳時代前期から多数の古墳が造営され、中でも東北地方最大の前方後円墳の「雷神山古墳」が有名です。
大型前方後円墳はこれ一つですが、多数の中小古墳(飯野坂古墳群、十三塚古墳、名取大塚山古墳)が作られ7-8世紀の横穴墓に続きました。
中将藤原実方朝臣
平安時代中期に中古三十六歌仙の一人 公家・藤原実方朝臣が陸奥守に任じられ、任期も間近にし名取の笠松道祖神の前で落馬し亡くなりました。
源氏物語の主人公 光源氏のモデルと言われています。
実方の墓標や佐倍乃神社(道祖神社)・西行法師の歌碑・松尾芭蕉の句碑などなど伝承の地が数多く残されています。
名取熊野三社
平安時代後期に高舘丘陵北東麓に紀伊国の熊野神社の本宮・新宮・那智社が勧請され、名取熊野三山が形成されました。
三社を合祀せず別々に設けて三山を引き写したのは全国的にみても珍しいものです。
東街道(あずまかいどう)
「奥州街道」以前の陸奥国の主要道路。
東街道と呼ばれるようになったのは、江戸時代になってからですが、古代では「東山道(とうさんどう/あずまやまみち)」、中世では「奥大道(おくだいどう)」として利用されてきました。
千貫―北目―笠島―塩手―箕輪―熊野堂を通り、名取川を渡って多賀の国府に至っていました。
時代の変遷とともに、道筋は何度も変わりましたが、沿線には多くの遺跡や物語が伝わっています。
奥州街道
江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として以北する街道です。
名取の宿場としては増田宿がありました。
現在、沿線には芭蕉の句碑、館腰神社、雷神山古墳などがあります。
貞山運河
貞山運河は、江戸時代から明治時代に作られ、仙台湾の海岸線約130kmの内、約半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河系です。
旧北上川河口から松島湾を経由して阿武隈川河口まで、海岸線に並行して続いています。
名取は木曳堀の中に入り、治水や利水といった機能以外に、歴史・景観等の魅力を有しています。
現在、平成23年3月11日に発生した東日本大震災の被災により、復旧を進めています。
名取市
7世紀末から8世紀に市の名前の由来となる「名取郡」の名称が、文献に初めて登場しました。
昭和33年(1958年)に、市制施行(世帯数5,382戸、人口33,123人)して名取市になりました。
